入院するのは何年振りだろう。
 私はそう考えて、閉じていた目をゆっくりと開いた。
 何度も寝ようと思ったが、静まり返った個室に響く空調の音が気になって眠れず、ただ
目を閉じてぼんやりとし始めてから大分時間が過ぎているはずだ。
 さて、困ったな。
 気分転換に部屋を出ようか。
 しかし、胸の傷がどうにも痛む。
 手術を受けた時には麻酔が使われているのでしばらくは身体のだるさの方が先に立った
が、それが治まると今度は痛みに苛まれる事になった。
 一応鎮痛剤も処方されているものの、余り強い薬を使うと依存性が高いとの説明が担当
の医師から有ったので適当に処方された物を自分は飲んでいるはずで、今はその効果が切
れてしまったのかもしれない。
 ちゃんと眠れる様にもう少し強い薬を処方して貰うべきだろうか。
 明日、看護士にでも相談してみるとしよう。
 そんな事を考えていると、ますます目が冴えてしまった。
 医師にはきつく止められてしまったが、痛みを紛らわせるのに、煙草でも吸いに行く
か。
 私は痛む身体になるべく負担を掛けない様に注意しつつ上半身を起こし、そっとベッド
から抜け出るとスリッパを履いて外に出る準備を始めた。

 私は夜の病院が好きだ。
 そういうとほとんどの人に変な顔をされる。
 大勢の人が居るにも関わらずしんと静まり返っていて、薄暗い。
 独特の雰囲気がなかなか面白いと思うのは、どうやら妙な事らしい。
 まあ、世間的には、夜の病院と言えば怪談の舞台としてうってつけの場所と言うイメー
ジなのだろう。
 どうも、そういう感覚はありがちで、私は好きになれないのだが。
 今私が歩いている薄いクリーム色の塗装が施されている通路の両側にも多くの扉が付け
られているが、このどれかから突然幽霊が飛び出して来て襲われる。と言う想像をしてみ
たものの、やはり恐ろしいとは思えなかった。
 定番過ぎるのだろうか。
 「……ん?」
 最近の病院が施設内禁煙の所が多く、この病院もそれに洩れない為、私は人気の無い裏
口を通り、中庭で煙草を吸うつもりだった。
 「ご同類、か?」
 その為、エレベーターを使って巡回するであろう看護士の目を避けて階段で一階迄降り
る予定だったのだが、建物の一番端に有る階段の踊り場に差し掛かった所でちらりと人影
が見えたのだ。
 服装は私と変わらない入院着で、身体付きからするとどうやら男の様だった。
 『彼』は私よりも先に階段を降り、既に一階下の踊り場へと向かったらしい。
 ちなみにここは三階なので、『彼』は後もう一階降りればすぐに中庭へと向かえるだろ
う。
 動きがゆっくりで足音が聞こえなかったのは、私と同じで何処かを切っているからかも
しれない。
 何せここは病院だ。病気でも怪我でも、入院する所迄行く人間であれば、半数位は手術
を受けた後であってもおかしくないはずだ。
 私は余り間を置かずに『彼』と顔を合わせそうだと思いながら、階段を降り始めた。

 建物内と同じく、中庭も静まり返っている。
 時折虫の鳴き声らしき物は響くが、点々と配置されている外灯のぼんやりとした明かり
以外に立っている者は見えなかった。
 おかしいな。『彼』もここに居ると思ったのだが、何処か離れた場所に行ってしまった
のだろうか。
 とは言え、痛む身体を引きずってわざわざ探すのもおかしな話だ。
 私は一人肩を竦めると、リハビリにも使えそうな散歩道の脇に置かれたベンチに腰掛け
て、左手に持っていた煙草の箱から一本取り出して早速口に銜えた。
 現在曇り空。確か月はもうそろそろ満ちていたはずだが、あいにく見えなかった。
 箱と一緒に持っていたライターを使う為、箱は自分の横に置いてライターのみを持ち直
し、親指で着火ボタンを押し込んで火を灯す。
 「いけませんねぇ」
 と、突然前から声がしたのに慌てて視線を上げると、すぐそこに白衣を着た男が居た。
 白衣を着ている所からして勿論医師なのだろうが、夜勤中の息抜きにでも来た所に、不
届きものである私を見つけたのかもしれない。
 「病院内は禁煙ですよ。勿論、ここも」
 「ああ……済みません。つい、吸いたくなりまして」
 「気持ちは分かりますがねぇ。困るんですよ」
 『医師』は苦笑を浮かべながら少し身を屈めて、ライターと煙草を横に置いた私の顔を
覗き込んで来る。
 煙草を吸おうとしていたのを私の担当にでも話されたら面倒な事になるが、この状態か
ら逃げても仕方ないだろう。
 「あの。出来ればこの事は内緒に」
 「内緒ねぇ。皆言うんですよ。子供と同じだ」
 『医師』の顔が更に近付いて来た。
 私はその顔から逃れる様にベンチの背もたれに身体を押し付け、まさに叱られようとし
ている子供の態になってしまっている。
 「そういう人には、罰を与えなきゃいけないなぁ」
 言うなり、目の前に有った『医師』の顔がぐにゃりと歪んだ。
 凹凸が無くなったかと思うと幾つもの亀裂がそこに走り、まるで熟れた柘榴が爆ぜ割れ
た時の様に、真っ赤な肉と乱雑に並んだ鮫に似た歯が表へと。
 「動く事を禁ず」
 私の背後から落ち着いた声が聞こえ、途端、『医師の顔だったモノ』がぴくりとも動か
なくなる。
 そこで、私はようやく『医師の顔だったモノ』が私に何をしようとしていたのかを認識
し、身体から力が抜けて行くのを感じた。
 「あ……な、何、が」
 「お気付きになられていると思いますが、喰われそうになったんですよ」
 背後からの声が言う。
 「病院には良くも悪くも色々なモノが溜まり易い。人の行き来が多い場所では珍しくな
い現象です」
 す。と私の右側から入院着に包まれた腕が伸びたかと思うと、その先に有る手がまだ固
まっている『医師』の肩をしっかりと掴み、そのまま私から引き剥がすかの様に突き飛ば
した。
 力を込めた動きには見えなかったが、『医師』の身体は異形の頭部と共にあっけなく私
から離れ、芝生の上を転がる。
 「病院は決まり事が多い。故に、それを破ろうとする側と守らせようとする側の感情が
ぶつかり合って妙なモノを呼び出してしまってもおかしく無いのですよ」
 「あ、あれがそうだと……?」
 「極端な例ですが、そうです」
 ベンチにへたりこんだままの私の問いかけに、背後の声は答えると伸ばしていた腕を戻
した。
 微かな衣擦れの音がする。
 「あれは、守らせようとした側の感情にストレスが合わさって暴走したのでしょう。病
院のスタッフも苦労しているんですよ」
 私にとっては耳の痛い言葉の最中、芝生の上で転がっていた『医師』がふらふらと起き
上がっていた。
 相変わらず頭は異形のままだが、その頭が無気味に蠢いている。
 「院内は……禁煙……禁煙禁煙禁煙禁煙……」
 「それについて反論はしないが、君のやり方は行き過ぎだな」
 背後からの声は落ち着き払い、穏やかと言って良い程だった。
 「注意は注意で収めるべきだ」
 「禁煙禁煙……!!」
 相手の声等聞こえていないのだろう。
 『医師』の頭が大きく広がった(と言うよりは開いたのだろうか)かと思うと、それが
鞭の如く細くしなり、幾つにも分かれながら私達の方へと飛んで来た。
 「仕方がないか」
 動けない。動けたとしてもあんな物を避けられる訳も無い私を余所に、背後からそんな
声がした。
 その時、強い風が辺りに吹きすさび、思わず目を閉じてしまう。
 「きんえ……」
 『医師』の言葉が途中で消えた。
 そして、来るはずの衝撃も訪れる気配が無い。
 こわごわと目を開いてみると、さほど離れていない場所に居たはずの『医師』の姿が消
えていた。
 跡形も無く、まるで幻の様に。
 「やはり、放って置いてはいけない様なので、対処しました」
 「それで……消えたんです、か?」
 「そう思えば良いと思いますよ」
 背後からの声が私の疑問にあっさりと答える。
 何が何やら全く分からないが、命に関わる危機は回避出来たらしい。
 安堵の息を吐きながら背後の声の主の姿を確認しようとした私の動きを、「しかし」と
言う声が止めた。
 「貴方は手術をされたばかりの様だが、もう一度精密検査を受けた方が良い」
 「え?」
 「右肺の背中側、位置的には鳩尾に近い所に取り除くべきモノが残っています。今の内
に投薬すれば、もう一度開腹せずに済むでしょう」
 落ち着いた声は、淡々と私にとって衝撃的な言葉を投げ掛けて来る。
 そう、私は昨日手術を受けたばかりだった。
 肺ガンの摘出手術である。
 まだ初期のガンと言う事で担当医師はそれほど深刻に考える必要は無いと説明してくれ
たが、何故手術の事を声の主は知っているのだろうか。
 いや、それよりも、取り除くべきモノが残っているとは。それは。
 「焦る必要は有りません。今日は寝て、起きてからシノミヤに言われたと告げて精密検
査を頼めば良い。貴方の担当医師も、詳しくは聞いて来ないでしょう」
 「い、一体……一体どういう事で……」
 「偶然ですが、分かったのでね。それだけですよ」
 背後からの声が遠ざかる。
 「ああ、それと、煙草はもう止めた方が良い。手術をされる位ですから、死にたくは無
いのでしょう?しばらくは大変でしょうが、身体の為には止めるべきですよ」
 どんどん遠くなって行く声に答える余裕は私に無く、ただ緩く何度も頷くしかなかっ
た。
 何にしろ、声の主は私の身体の具合が私以上に良く分かっている様であり、肺ガンであ
るにも関わらず懲りずに煙草を吸おうとした所への忠告は衝撃的だった。
 寝て、起きたら言わなければ。
 シノミヤと言うのは、声の主の名前なのだろうか。
 それが少し気掛かりだったが、今さら確認するのも気が引ける。
 ただ、声の主の姿を確認したくなった私は、そっと振り向いてその姿を探した。
 裏口から建物へと入る、入院着に身を包んだ人影。
 見覚えの有る姿だった。
 ああ、ここに来る前に見た、『彼』だったのか。
 私は自分の顔が自然と笑みを浮かべたのを感じながら、ベンチに座り直すとしばしその
笑みに全てを任せた。