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                  <一日目>
 月の無い夜、頼りない街灯の薄明かりに照らされた占い師は言った。
 「もしも、その悩みを本当に解決したいのなら、ここに行きなさい」と。
 気が付けば先程迄紫色の布の上に広げられていたタロットカードは消え去り、代わりに
一枚の名刺が置かれていた。
 そこに刷られていた名は。

 『四ノ宮探偵事務所』
 繁華街の賑やかな通りから一本離れた細い通りの一角。
 建ってからそれなりの年月が経っているのだろう。
 外壁の所々に生じたひび割れを補修した痕跡が見える古びた雑居ビルの二階に、それは
有った。
 建物と同じく古びた―しかし整備はしっかりとされているらしく、ドアノブを回しても
耳障りな金音を立てたりはしなかった―扉を開くと、複数の来客が有った際の目隠し目的
なのか、木製の格子に磨り硝子がはめ込まれた衝立に出迎えられる。
 「済みません…午前中にご連絡した野木ですが」
 事前に電話連絡で空いている時間も確認し、依頼したい事も簡単に伝えておいたが、い
ざ訪れてみると初めての経験だけに緊張する。
 発した声が僅かに震えているのを自覚しながら、俺は衝立の向こうで影が揺らめいたの
を微かに見た。
 「お待ちしていました。どうぞこちらに」
 携帯電話を使うと記録が残ってしまう為、最近すっかり数を減らした公衆電話を探して
連絡した時と同じく、落ち着いた低い声が衝立を飛び越えて呼び掛けて来る。
 俺がそれに従って衝立の左側から回り込んで更に中へと進むと、そこで待っていたのは
一人の男だった。
 ダークグレーのスーツに包まれている体格は俺とさして変わらないだろうが、後ろへと
柔らかく撫で付けられた黒髪には白髪が目立ち、こちらに向けられている視線は僅かに細
められているせいか穏やかに感じられるものの、睨み付けられる事が有ったら竦み上がっ
てしまいそうな鋭さが有った。
 「どうも。私が四ノ宮です。野木さんがそろそろいらっしゃる頃だと思っていましたの
で珈琲を用意していますが、いかがですか」
 「あ、は、はい」
 緊張している事は一目見て分かったのだろう。男―四ノ宮東護、と言うらしい。この探
偵事務所の名も、彼の名字がそのまま付けられていた―が落ち着いた声でそう言い、手振
りで座る様にと促しながら問い掛けて来たのに、俺は反射的に何度も頷きながら給湯室ら
しき隣の部屋へと移動する彼を見送った後でソファに腰掛けると室内を見回した。
 こういう所では定番なのか、分厚いガラス板を使用したテーブルが中心に据えられ、そ
れを挟む形で俺が腰掛けている黒革のソファと同じ物が向こうにも置かれている。
 部屋の両側には天井迄届く高さの書棚が並び、俺から見て左奥には作業用らしき簡素な
スチール机が有った。これは探偵物のミステリードラマで良く登場する様なうず高く書類
が積み上げられた状態にはなっておらず、逆に驚く程整然と並べられていた。
 「ここの事は、誰から聞かれましたか」
 閉じられた扉の向こうから、四ノ宮が問い掛けて来る。
 俺は咄嗟にジャケットの懐から一枚の名刺を取り出し、テーブルのガラス板の上へとお
いた。
 「××駅の近くの公園で占いの店を出している人に、悩みを解決したいのならここに行
けば良いと名刺を渡されたんですが…」
 「成程、彼女に御墨付きを貰った訳ですね」
 扉越しの言葉が僅かに揺らぐのとほぼ同時にゆっくりと扉が開き、少ししてからシンプ
ルな白のカップを両手に一つずつ持った四ノ宮が再び姿を現す。
 彼女、と言うのはあの占い師の事らしい。
 「御墨付き…とは何でしょう?」
 「貴方の悩みを解決するには、私が適任だと言う結論に達した。と思って頂ければ良い
かと。砂糖とミルクは必要ですか?」
 「あ、出来れば砂糖を…」
 「分かりました」
 名刺の脇へと置かれたカップには黒々とした液体が満たされ、立ち上がる湯気と辺りに
漂う独特の香りが緊張を僅かに緩ませる。
 ゆったりとした、しかし見た目よりは早い動きで気の利く探偵は踵を返し、再び給湯室
へと入って行くと今度はすぐに戻って来た。手にはスティック型の砂糖とスプーンを持っ
ている。
 「どうぞ。一息ついてからで結構ですから、気が向いたら詳しい話を聞かせて下さい」
 そう言いながら四ノ宮が俺の向かいへと腰掛け、砂糖とスプーンをテーブルの上へと置
いたのに俺は軽く頷いた後、取りあえず手に取ったスティックの端を千切って中身をカッ
プの中へと入れるとスプーンでぐるぐるとかき混ぜる。
 元々溶け易くしているのであろう砂糖など数回混ぜればすぐに溶けてしまうのは分かっ
ていたが、話し出すきっかけを作るのには倍以上スプーンを動かす必要が有った。
 「……信じて貰えるかは分かりませんが、実は」
 こう前置きしなければならない様な悩みとは、こうだ。
 俺はとあるホストクラブで雇われ店長をやっている。
 店長と言っても、頭に雇われと付いている通り、俺がする事は開店・閉店に際して上か
ら指示される連絡事項を従業員やホスト達に伝え、店で何かトラブルが有れば騙し騙しで
解決してはトラブルの内容を上へと伝える。要するに中間管理職の様な仕事だ。
 一応金回りの事も俺がやっているが、店に有る金庫に売り上げを入れておけば次の日に
は酒の仕入れ等で必要な金以外は綺麗に無くなっており、月末の給料日当日にはしっかり
と小分けにされた大金が揃えられている。俺はそれを配るだけなので、その辺は操り人形
と変わらない。
 ともかく、俺がやる事は多い様で少ないが、トラブルだけはどうやっても月に何件かは
起こり、特に客が絡んだトラブルは必ず一件は紛れ込んでいた。
 今回の悩みも最初はそういう類いの物だと思っていたのだが、どうも具合が違った。
 通常、良く有るのは客が遊んだ金を踏み倒したり―この場合は、客を取っていたホスト
の『管理不行届き』と言う事で立て替えるのがほとんどだ―、客が本気で入れ込んでしま
い、ストーカー化してしまう―長引くと面倒なので、最近は手っ取り早く『こちらの筋』
の興信所に頼んで解決する―、と言うパターンだが、今回は全く別なのだ。
 薄い青色のブラウスに黒のタイトスカート。全く染めていないらしい黒髪を一つにまと
め、化粧っけの無い顔にはこれと言った特徴が無い。と言う、まったくもって地味な格好
をした女だった。
 最初に見た時は何かの罰ゲームで無理矢理来させられたのかとすら思ったが、そうでは
なかったらしい。
 女は外見の割に落ち着いた様子でホスト、それも一度にうちのナンバー1と2を指定し
二人が席に付いてすぐに注文したのはドンペリのロゼ。属に言うピンドンだ。
 余りにもそのまま過ぎると言えばそれ迄だが、いきなり注文するにしては気前が良過ぎ
るし、外見や印象から見ても異常では有った。
 しかし、間抜けな俺はその異常さと胡散臭さを感じるよりも先に、良い鴨が飛び込んで
来た事に気を良くしてしまっていた為、事態の悪化を招いてしまったのである。
 女が来てしばらくは、トップを競い合うホスト同士の張り合いが行われていると思って
いた。
 事実、週に一度だけ来る気前の良い女が来る度、指名される前からナンバー1と2は女
の席へと走る様にして駆け付け、何度聞いても寒気が走る甘い言葉と態度で女の気を引こ
うとした。
 それはホストクラブでは珍しく無い事であり、当然の事でも有る。
 ただ、彼らの言動は徐々に仕事とは関係無く熱を帯び、時には女の前で睨み合いすら起
こる様になり始めたのだ。ここ迄来ると女の方が引きそうだが、意外や意外、女は口紅を
引かない色の薄い唇を歪めてさも楽しげにその光景を眺めていたのである。
 持ち上げてる様で手に出来る金の為に弄んでいたはずのホストが、逆に弄ばれている。
 俺が不味いと気付いた時には、二人のホストは刃傷沙汰でも起こしかねない険悪さで店
全体の雰囲気を壊す寸前に迄陥っていた。
 普通はどちらかを辞めさせて売り上げは何とか維持、女にはこれ以上の来店をお断りさ
せて頂いてめでたしめでたし…となるはずだが、ホスト二人は頑として聞かない。お互い
でお前が辞めろと口論になって又も関係悪化。女に至っては、二人から絶対に来る様にと
連絡が有るからと言ってこちらも聞いちゃくれない。
 それでは、と『こちらの筋』の興信所に頼んで解決しようと思ったが、脅しを掛けに
行った奴らが何故か腑抜けた顔で戻って来た―理由を聞いても、腑抜けた顔のままでぼん
やりと「無理でした」と言うばかりだった―のに至って俺は又気が付いた。
 これは、行く所迄行かなければ解決、いや、終わらないのではないかと。
 どうしてそうなったのかは正直分からないが、女のせいである事は間違い無い。
 しがない雇われ店長の俺にはどうしようも無さそうだが、終わりを待っていればその店
長の座が危ういのも確かだ。
 さて、どうすれば良いのか。
 そうやって抜けられなくなった迷路で立ち尽くしていた俺に声を掛けたのが、道端で出
会った占い師だった。と言う訳だ。

 「異常な事は確かですが、俺にはどうしたら良いのかさっぱり分からないんですよ」
 「当然の反応ですね」
 時折自分の頭の中を整理するついでに珈琲を飲む間を度々入れた為、話し終わる頃には
珈琲は残り少なくなっていた。
 対して四ノ宮の前に置かれているカップの中身は半分程減っている。が、俺は話す事に
集中する余り、彼がそれに口を付けている所を見た覚えが無かった。
 「俺も、ちゃんと姿を見たのは二、三度しか無いんですが、あいつらが夢中になる様な
女じゃあないと思うんですがね……」
 「そういう付き合いと言うのは、外見のみが原因では無いのですよ。特に、こういう場
合は」
 そんな事かと笑い飛ばされるのではないかと予想していたのに反して、探偵は苦笑の一
つも浮かべず、代わりに目を細めて言葉を続ける。
 「例え外見が地味であろうと、何故か人を惹き付ける力を持っている。そんな者も居ま
す。それは人柄による事もあるし、地味に見えて実際は整った顔立ちであったりする事も
ある。人間において美形、と呼ばれる顔立ちは飛び抜けた部分が有るのでは無く、平均的
で形が整っている場合が多いそうですよ」
 立て板に水。と言うのだろうか。
 俺が話している間は相槌とちょっとした確認位しかしなかったのに、今はすらすらと淀
む事無く言葉を並べて行く。
 カップの底に残った珈琲を飲もうとした俺は思わずその手を止め、向かいに座る四ノ宮
の顔を見た。
 「しかし、今回においてはどうもそういう類いでは無いらしい。だからこそ、彼女は御
墨付きを出したのでしょうが。先程の話によると、そちらの方である程度は女性について
調査を済ませていますね?」
 「は、はい。その書類も持って来ています……」
 『こちらの筋』を使うにも、全くタダと言う訳には行かない。それなりに金を払い、お
願いした上で支払った分なりの調査はして貰っていた。
 女の住所、家族関係、勤務先、勤務態度、店に来る前後の行動等々……どうやら一人で
探偵業をこなしているらしい四ノ宮に改めて頼んで時間を食うよりは、それらの『資料』
をまとめて渡し、無駄な手間と金を省くのが最良だろう。
 そう思った俺は最初からそのつもりで『資料』をコピーし、持って来ていた。
 本来は『こちらの筋』に睨まれる行動だが、店長の座が掛かっている以上、俺も手段を
選んではいられない。一応、悟られない様に上手くやったつもりでもいる。
 「どうにか…出来そうですかね……?」
 俺が鞄から取り出した書類の束を受け取り、律儀に「失礼」と言ってから目を通し始め
た四ノ宮の伏せ気味になった顔を見ながら問い掛ける。我ながら弱々しい声だ。
 「こうなった原因について幾つかの予想はしていますが、それを確認する為に一日だけ
時間を頂けますか。その上で、女性と話をさせて頂く事になると思います」
 「は…?一日、ですか?」
 「ええ。一日で結構です。確認すべき事はもう決まっていますから。それに、貴方も穏
便に済ませられる方が良いでしょう」
 「それはそうですが…本当に、一日で?」
 何度も確認する俺がおかしかったのだろう。四ノ宮は『資料』から顔を上げると、微か
に笑った。
 にやりと笑えば凄みの有る顔になるはずだが、そうやって笑うと穏やかな物になる。不
思議な男だった。
 「どうしても急ぐ、とおっしゃるのであれば今から出向く事も出来ますが、それでは女
性に害が及ぶ可能性が有る。私は、そういう事態は避けたいと思っていますので」
 「女に害って……どういう事ですか?」
 「今は話せません。貴方が混乱する元になります」
 害を及ぼされているのはうちの店で、決して女では無いはずだが。
 「取りあえず明日調査に出ます。女性と会うのは明後日の夜で良いでしょう。女性は週
末に一度だけそちらの店に行く様ですから、十分間に合うかと」
 四ノ宮は俺の戸惑いを余所に、やはり淀み無く段取りを決めて行く。
 全く迷いを感じさせず、悩みを解決する方法を既に発見したかの様な物言いに俺は途中
からはただ頷くだけの機械と化し、その勢いを保ったままで相談料五千円と前金一万円の
計一万五千円を払って探偵事務所から出て来た時には、正直に言えば狐に摘まれた様な状
態になっていた。
 そもそも、怪しい路上の占い師に勧められて辿り着いた所だ。全幅の信頼が置けるとは
思っていないが、全く信頼出来ない、と言う訳でも無い。
 それに、俺はあの探偵がやってくれそうな。そんな気がしていた。
 理由は分からない。しかし、そんな気がした。

                  <二日目>
 店が開くのは日が暮れてからであり、店長の俺が出勤するのは日が暮れるより少しだけ
前である。
 俺は従業員達と共にその日の段取りを決め、酒やツマミの在庫や開店前の清掃確認を終
えると、客と同伴出勤して来る者を除いたホスト達が揃った時に最終的なミーティングを
し、いよいよ開店。となる。
 四ノ宮探偵事務所を訪れた次の日も俺はいつもと同じく―とは言え、やはり悩みに頭を
悩ませていたが―各所の確認とミーティングを行い、開店するのを待つばかりとなった時
に四ノ宮からの連絡が入った。
 俺がそうしたのと同じく公衆電話からの連絡だ。
 それによると四ノ宮は昨日言っていた『確認』を完了し、必要な情報は手に入れたらし
い。
 何を確認したのか、必要な情報とは何なのかについては詳しく語らなかったが、短い会
話の中で分かったのは四ノ宮が『確認』及び情報収集の為にした事はあの女が住んでいる
街に出掛け、周辺に点在する寺社・公園等を見て回った。と言う物であった。
 今は女が住んでいるマンションから最寄りの駅へと向かう道の途中にあるニジガオカ公
園に居るそうだ。
 「詳しい話は明日、昨日来られたのと同じ頃にお越し下さればご説明しますよ。それか
ら女性の部屋に向かった方が良いでしょうしね。では、失礼します」
 無駄な事は全く口に出さず、四ノ宮はそう締めくくると電話を切った。
 携帯電話を握ったままの俺は、戸惑うばかりだ。
 どうして寺や神社、果ては公園に用が有るのか分からないし、おそらく四ノ宮なりの予
想ではそういう物の中に何かが有り、予想通りに何かを見つけたのだろうが、それを明日
説明されても、やはり俺には分からないのではないかと考えてしまう。
 結局、何が起こっているのやら。
 俺は内心で首を傾げたまま、従業員の一人が開店中の目印でもある店外のネオンを点灯
させたのに気付いて本来の仕事へと意識を傾けたのだった。

                  <三日目>
 女と話をする当日。
 俺はいつもより早く店に出ると同じ時間に呼び出した、従業員の中でも店長候補―いつ
か俺が独立する時か、何か不手際を起こして『不要』になった時、真っ先に新しい店長と
して選ばれるであろう―と呼ばれている奴に後を頼むと探偵事務所に向かった。
 今日は細い白のストライプが入った紺のスーツに身を包んでいる四ノ宮は相変わらず落
ち着いた様子で俺を出迎え、やはり前と同じ様に俺に珈琲を勧めてから今回の件について
の説明を始めた。
 その説明自体は十分もしない内に終了したが、聞き終えた後の俺の頭には大量のハテナ
マークが詰め込まれ、頭痛でも起こしそうな勢いで動き回っていた。
 「あの……正直な話、信じられないんですが……」
 「そうでしょうね。それは普通の反応です」
 信じて貰えるか分からない。俺自身がそう切り出した話だったのだから当然の事なのだ
が、四ノ宮が語る話は更に信じられない物だった。
 「確かに……確かにそんな力が有るのなら、今迄起こった事が何だったか……について
は分かります。でも、理解とか…その、納得出来るか、と言われると何とも」
 「理解も納得も、実際に体験してみないとなかなか分からない物です。私も、昨日女性
が住んでいるマンション周辺を当たってみて確信を得た訳ですし、貴方は店に居ても直接
女性と視線を合わせた事は無い様ですから、余計に分からないでしょう」
 ゆったりとソファに身体を預け、穏やかな口調で話しながら四ノ宮がテーブルに置いた
『資料』に目を向ける。
 俺が持ち込んだ興信所の物だけでは無く新しい物が何枚か有り、その内の一枚は女が住
んでいるマンション周辺の地図らしく、四ノ宮自身で書き足したのかボールペンによるメ
モがあちらこちらに見えた。
 「しかし、有るモノは有る。と思って頂くしか無いのですよ。事実、そちらの店では揉
め事が起こり、続いている」
 「えぇ…それは分かります……」
 一緒になって『資料』に目を向けると、地図に書き足されたメモは昨日四ノ宮が言って
いた通り寺社・公園に集中し、特に目を引いたのはマンションから歩いて二、三分程で行
ける距離に有るかなり大きな公園についてのメモだった。
 虹ヶ丘公園と印刷された所に、下線が引いてある。
 ニジガオカ公園。昨日の連絡の際に四ノ宮が居た場所だ。
 そこは池だか沼を示すらしい水色で塗り潰された部分が公園の半分を占めており、ボー
ルペンの黒は少々乱暴にその部分を丸く囲んでいた。
 一体何の意味が有るのだろう。
 「ただ、幸いな事に今回は穏便に済ませられそうですから、野木さんは最初のご希望通
り女性との話し合いを進めて下さい。何かあれば、私が対処しますので」
 「は、はあ……」
 探偵の言葉の所々に引っ掛かる部分が有ったものの、それが何なのかを問い返す為の勇
気が俺には無かった。恐かったのである。
 何が恐いのか、恐いと言う意味を考える事すら、恐かった。
 そもそも俺自身がこの探偵に仕事を依頼したのだ。今更アンタだけ行ってくれ、等と言
えるはずも無いのだが、俺は何故か探偵の『仕事』に付き合っている様な錯覚を覚えてい
た。
 「では、行きましょうか」
 テーブル上の『資料』を両手でまとめ、脇へと退けた四ノ宮がそう言うと静かに立ち上
がる。
 俺は釣られる様にして立ち上がり、それから頷いた。

 空が真っ赤に染まっている。
 同じデザインの鞄を持った子供達が俺達の脇を走り抜けて行くのは、塾にでも行く途中
なのかもしれない。
 「珍しいですか」
 「は?」
 「子供ですよ。ずっと目で追っていました」
 「あぁ…そう、ですか」
 少し前を歩いている四ノ宮が問い掛けて来たのに間抜けな返事をし、続いた言葉に納得
する。いつ俺の顔を見たかは分からないが、返事と同じく、かなり間抜け面だったに違い
無い。
 「確かに、珍しいのかもしれませんねぇ……ホストクラブの仕事なんて、昼迄寝て夕方
には店に出て朝迄…って流れですから」
 ついでに、俺が住んでいるのは店に近い繁華街の中に作られたマンションだ。こういう
住宅街の風景と言う物には無縁と言っても良い。
 「四ノ宮さんは、どうですか」
 「私は昼も夜も無いですからね。結構見ていると思いますよ」
 四ノ宮は便宜上俺のサポートをしているマネージャーの様な人間として扱う事に決め、
本来なら俺が持つべき革の鞄―中には、二度と店に来て貰わない様に確約を得る為の誓約
書が入っている―を左手に持ち、ゆったりとした歩みで先を行く。
 その動きには、俺と違って今から会う女を恐れる様子は微塵も無かった。
 占い師が勧めた程だ。こういう仕事自体慣れているのかもしれないが、この男が何を考
えているのかは知りたい気がした。
 「野木さん」
 「は、はい?」
 他愛無い事を考えている最中に呼び掛けられ、又も間抜けな返事をしてしまう。
 慌てて爪先に向けていた視線を上げると四ノ宮は立ち止まっており、その顔が横へと
向いているのに俺もそちらを見る。
 ずっと俺の腰辺りの高さで揃えられた垣根沿いに歩いていたが、これは公園の外縁だっ
たらしく、それが途切れた一角には白い石柱が立てられており、歩道側の面には『虹ヶ丘
公園』と彫られてあった。
 「ここが虹ヶ丘公園です。おそらく、話が終わった後で来ると思いますから覚えておい
て下さい」
 「公園に…ですか?分かりました……」
 俺は首を傾げつつも頷き、それを確認した四ノ宮は軽く顎を引いてから再び歩き出す。
 あの女の部屋迄、後二、三分。
 本当に穏便に済めば良いのだが。
 遅れて探偵の後に付いて歩き出しながら、俺は小さく息を吐いた。

 かなり古いマンションだった。
 四ノ宮探偵事務所が入っているビルも相当だったが、こちらは更に古そうだ。
 俺達が今踏み締めている階段は滑り止めのゴムが完全に擦り切れ、ストッパーの金属が
むき出しになっている。これでは滑り止めの効果が無い所か、逆に滑り易いだろう。
 手すりもあちこちに錆が浮き、掴んで力を入れたら根元から折れてしまいそうだ。
 薄汚れたコンクリートの壁は暗く、踊り場に付けられた蛍光灯も点滅していて弱々しい
事この上無い。
 こんな所で女の一人暮らしと言うのは、不安でないのだろうか。
 俺は店でしか話した事が無いので知らなかったが、興信所の奴らももしかすると同じ様
に感じたかもしれない。
 「ここですね」
 階段で―余りに古い為か、このマンションにはエレベーターが設置されていなかったの
だ―三階迄上がった所で、息を切らせた様子も無い四ノ宮が階段から一番近い部屋の表札
を確認しながら言った。その横に有る格子付きの磨り硝子の向こうからは室内の光が洩れ
ている。
 「逢沢」
 「そう、です」
 対して俺は少し息が切れていた。運動不足かもしれない。
 「少し、待ちましょうか」
 「いや…結構です。呼び出しは、こちらでしますから…」
 口の中に溜まっていた唾を飲み込み、息を整えてからドアの横に付けられたインターホ
ンのボタンを押して待っていると、やがて中で人の動く気配がしてスピーカーから女の声
が発せられた。
 「はい…」
 「逢沢さんですか?『ラファエル』の野木ですが」
 「……お話なら、お断りしたはずです」
 「こちらは、そうも行かないんですよ。取りあえず、改めてもう一度お話をですね」
 金を払って来ている自分を追い出そうとしている俺に良い印象を持っていないであろう
事は分かっているが、だからと言って折れる訳には行かない。俺が言い募ると、しばらく
沈黙が続いた後、スピーカーが作動する小さな音が響いた。
 「分かりました」
 ほとんど呟く様な声で返事が有ったのに隣で黙り込んでいた四ノ宮を見ると、探偵は俺
では無く閉じられているドアを見ており、鍵が解除される音がするのには無言のままで静
かに後ろへと引いたのみだった。
 「何度聞かれても、同じですよ……」
 軋んだ音を立ててドアが開き中から顔を覗かせたのは、やはり地味でこれと言った特徴
の無い女、逢沢夕子だった。
 奇しくも、薄い青色のブラウスに黒のタイトスカートと言う最初に店に来た時と同じ格
好である。
 「私は、どう言われたって、行きますから……」
 俺だけでなく四ノ宮が居る事を気にする様子は無く、右手でドアノブを握ったまま女の
伏せられていた顔がゆっくりと上がり、俺を見る。
 何の事は無い。アイシャドウも、アイラインすら引かれていない、女の目だ。
 と、偶然なのか何なのか、視線がぶつかった。
 途端、強い目眩に似た感覚が俺を襲う。だが、別に身体が揺れている訳では無い。
 ただ、一瞬で視界に霞が掛かった様な、奇妙な現象が起こり、今、何をしに来たのか、
何を言おうと、何をしようとしていたのかが、分からなく……。
 「野木さん」
 不意に低い声が俺を呼び、目の前を何かが遮った。
 四ノ宮の手、か。
 それに気付いた直後、先程の感覚が嘘の様に消え去り、そこでようやく俺はよろめいて
狭い通路の壁に背中を押し付ける事で何とか踏み止まるのに成功した。
 「こういう荒っぽいやり方はいかんな」
 女の俺に向いていた視線を遮ったのだろう。俺に手の平を向ける形で上げられた右手は
そのままに、四ノ宮が言う。
 「それを、『彼女』は望むのかね?」
 「…………」
 四ノ宮の問い掛けに女は何事かを答えた様だったが、あいにく俺には聞こえなかったも
のの、この問い掛けに答えたと言う事はやはり四ノ宮の予想通りなのだろう。
 「野木さん、大丈夫ですか」
 「あ……はい、何とか……」
 何度か強く目を閉じたり開いたりを繰り返す内に平衡感覚が戻って来、四ノ宮の呼び掛
けにも答える事が出来た。
 「とにかく……こちらは話し合いを望みます。宜しい、ですか」
 いつの間にか四ノ宮の手は下がり、女の視線は伏せられている。
 二人を見ながら俺が壁から身体を引き剥がして言うと、女は部屋の中へと身体を向ける。
 「…………どうぞ」
 短い返答が拒絶では無かった事に安堵と緊張を感じていると、四ノ宮が微かに口の端を
吊り上げたのが見えた。
 何故かその笑みにホストクラブの店長なりの根性を認められた様な気がしたのは、俺の
自惚れだろうか。
 ともかく、俺は四ノ宮に先に部屋へと入って貰い、自分で部屋の扉を閉めた。

 部屋に通されると、中は女と同じく地味な配置になっていた。
 フローリングの床はそのままで、少ない家具は茶色、ベッドはスチールパイプの安価な
物で、部屋の真ん中に置かれた低いテーブルと奥のカーテンの白が浮かんで見える。
 風を入れる為なのかベランダに続くガラス戸が薄く開けられていて、時折カーテンが揺
れていた。
 夕暮れは既に終わりかけ、赤かった空は紺色に変化している最中だ。
 「……そこに」
 女はカーテンの前迄行くと先に座り、俺達は促されるのを待ってからテーブルを挟んだ
向かいに腰掛ける。四ノ宮は先程の事が有るからか、俺の左側に座っていつでも対処出来
る様にしたらしい。
 「……話、は」
 「前に店で……それと、別にこちらに来た者が言った事と同じです。申し訳無いですが
もう店には来ないで頂きたいのです」
 「私…は、行くのを止めるつもりは……」
 「そのお気持ちはうちとしても嬉しいですが、あの二人が貴方の事でトラブルを起こし
ていましてね。このままでは口喧嘩では済まなくなる可能性が有るんです。そうなったら
貴方にもご迷惑が掛かります。ですから」
 「でも、私は行かないと……」
 「逢沢さん?」
 「私は……」
 話を聞いているのかいないのか、女は視線をテーブルに向けたまま、ぶつぶつと呟き続
ける。これでは、いつ迄経っても問題が解決しそうに無いではないか。
 助けを頼もうかと四ノ宮を見ようとすると、俺の気配を察した様に、低い声が女に掛け
られた。
 「もうそろそろ、良いのではないかな」
 「……何が、ですか」
 「『彼女』の望みは、これ程頑なな物だったかね?」
 「…………どこ迄知っている」
 女の口調が変わった。
 先程迄のぼそぼそとした聞き取りにくい物では無く、はっきりと、そして何処か威圧感
を覚える物だ。
 「貴様、ただの人間ではあるまい」
 「さて。どういう基準でただの人間なのか否かをここで論じるつもりは無いのでね」
 対する四ノ宮が驚きを全く表さず、逆にはぐらかす口調でもって答えたのにテーブルを
凝視していた女の視線が上がり、俺達の方を見る。
 咄嗟に視線を外そうとしたが、その前に女の視線に捉えられてしまった。これでは、前
と同じだ。
 「どういう意図でこの男に付いて来た」
 カーテン越しの夕日に照らされ、女の顔には影が出来ていた。その中で、目だけが鈍い
光を放っているのが分かる。
 「我に仇成す気では無かろうな?」
 前の様にこちらの意識がどうにかなってしまう、そんな異常は起こらなかった。だが、
視線を逸らす所か目を閉じる事さえ出来ず、ひたすらに女の目を見る様に仕向けられてい
る。金縛り、そんな単語が頭の中に浮かんだ。
 四ノ宮は、どうしている。
 そう思った時だった。
 「そういうつもりは無い」
 低い声が言った。
 俺とは違い、四ノ宮は縛られていないのか。
 しかし、確かに女は俺だけではなく四ノ宮も視界に入れていたはずだ。
 「何で」
 頭の中で考えていた事が、ぽろりと口から転がり出た。動ける様になっている!
 俺は混乱しながらも、試しに顔を横へと動かそうとした。すると何の問題無く顔は動き
左に居る四ノ宮の落ち着き払った横顔を見る事が出来た。
 「貴様……我の『力』を消したのか」
 「最初に言ったはずだ。荒っぽいやり方はいかんと。そもそも、我々は話し合いに来て
いるのでね。こういう『力』のやり取りは、私も望んではいない」
 「……それで、どうするつもりだ」
 既に女の目からはあの鈍い光は消え去り、代わりに苦々しげに眉が歪められている。
 対する四ノ宮は、相変わらず平静そのものだった。
 そして、俺は一体何が起こっているのか、さっぱり分からないでいる。
 「私としては、『願い事』はそろそろ終わりにしても良いのではないかと思っている」
 「……そこの者が言う様に、店…の事を考えて、か」
 「そうだ。そして、彼女の事も」
 「これ以上は、アイザワユウコの為にはならないと?」
 自分の名を言っているにも関わらず平板な口調で語られたそれは、まるで他人事、いや
実際他人なのだろう。俺の知らない『女の中に居る何か』はそう問い掛け、問われた側で
ある四ノ宮は黙ってゆっくりと頷いた。
 探偵の動きを見た女はしばらく沈黙した後、ふぅ。と小さく嘆息した。まるで、老人が
ちょっとした力仕事でもした時の様な嘆息だった。
 「……分かった。貴様の言葉、信じよう。しかし、偽り有らば……」
 「八つ裂きでも頭からでも好きにしてくれて構わんよ」
 物騒な返答をした四ノ宮が口の端を僅かに吊り上げた。
 こんな場でも、泰然とした笑みである。
 「彼女の今後については」
 四ノ宮が突然こちらを向いた。
 完全に傍観者と化していた俺は思わずびくりと身体を震わせてしまったが、探偵はそれ
を気にせずに言葉を続ける。
 「こちらに任せておけば良い」
 その言葉に促される様に女の視線が動き、俺の視線と交わる。
 しかし幸いな事に『力』とやらはもう襲って来なかったので、俺は落ち着こうと努力し
ながら一度だけ頷いた。
 そうやって見て気付いたのだが、女の目は瞳孔が縦に長く―そう、まるで獣の様に―変
化しており、ただ視線を合わせているだけでも不思議な感覚を俺に与えた。
 「しかと確かめたぞ」
 もしも下手な事をしたら、どうなるか分かるだろうな。
 そう言外に含められた気がして、俺は思わず首を竦める。
 それでも四ノ宮の方は平然と、ただ女を見ているだけだった。
 「……我はもう行こう。何か言いたい事が有るのならば、追って来るが良い」
 「了解した」
 女の目が閉じられ、続いた四ノ宮の言葉が終わった直後、一際強い風がベランダから部
屋の中へと吹き抜ける。風を受けた白いカーテンが大きく翻り、女の身体を覆う程に乱れ
た。
 「っ……逢沢さん…!」
 風に押された訳では無いだろうが乱れたカーテンから解放された女の上半身がぐらりと
揺れ、テーブルへと突っ伏しそうになるのに慌てて両手を伸ばす。と、いつの間にか立ち
上がっていた四ノ宮が移動しており、俺の手が女の肩に触れるより先に後ろからしっかり
と身体を支えていた。
 「一体何が……」
 「憑いていたモノが去った時、自分を支配していた力から解放された事で意識を失った
のですよ。大丈夫、すぐに目を覚ますでしょう」
 「これで、終わった……んでしょうか」
 「彼女に関しては終わったと言えるでしょう。もう少し、フォローはしておかなければ
ならないと思いますがね」
 四ノ宮は完全に力を失っている女の身体を両腕で軽々と抱き上げ、部屋の隅に置かれて
いるベッドの上へと横たえる。
 「四ノ宮さんは、最初からこうなると思っていたんですか?」
 「さすがに全てを見通していた訳では無いですよ。ただ、貴方から聞いた話と、この周
辺で聞いた話とを合わせて考えると穏便に済ませる事も可能だと思った迄です。そこは、
いつもの仕事と変わらない物…と言っておきましょう」
 女の乱れた髪を右手で丁寧に直してから振り向いた四ノ宮は、俺の問いに答えると微か
に笑って見せたのだった。

 「楽しい夢を見ていた様だったんです」
 女は言った。
 「こんな私がホストクラブで男の人と一緒にお酒を飲んで、色んな話をして…男の人に
挟まれて、ヤキモチを焼いて貰ったり…。ええ、お二人が仕事としてやっている事は充分
分かっていました。でも、それでも、楽しかった」
 女が笑う。心底嬉しそうに。
 「今迄の私なら、絶対にあんな事は出来ませんでした。だから、余計に楽しくて、嬉し
かったんです。本当に、夢の様で」
 女は、サインを書き終わった誓約書に捺印する。ゆっくりと、丁寧な動きで。
 「お二人にも、お店にもご迷惑をお掛けしました。もう、行きませんから」
 細い指で滑らせた誓約書を俺の方へと差し出して。
 「でも…出来ればお伝え下さい」
 化粧気の無い顔が静かに伏せられ、女は深々と会釈する。
 「とても楽しかったです。有難うございました。と」

 「何だか、やり切れなさそうな顔ですね」
 完全に日が落ち、人通りが少なくなった暗い歩道を歩いていると声を掛けられた。
 行きと同じく、俺の少し前を歩いている四ノ宮が振り向いている。
 余程、元気の無い歩き方をしていたのが分かったのだろうか。
 「いや、やり切れないと言うか……こんな仕事をやっている人間が言う事じゃないとは
思いますが、ちょっと、胸が痛んでいます」
 等間隔で据え付けられた街灯の光に照らされつつ、俺は溜息をつく。
 「結局、誰が悪いとか、そういう次元の話じゃないんだろうなぁ……と分かってはいる
つもりなんですがね」
 「はい」
 何となく足取りも重い俺に合わせているのか、四ノ宮の歩みはかなりゆったりとして、
既に前に戻された顔がどんな表情を浮かべているのかは分からない。
 ただ、相槌は穏やかな物だ。
 「やっぱり、やり切れないんでしょうかねぇ……。しばらくは逢沢さんの顔が忘れられ
そうにありません」
 「それで良いのでは無いですかね。まぁ、深刻に受け止め過ぎてしまうと、彼女が困る
かもしれませんが」
 「……困り、ますか」
 「少なくとも、彼女はすっきりした様ですし。今更引き摺るのも彼女に悪いでしょう」
 「そう、ですね……」
 もう一度溜息をつき、俺は思い出す。
 四ノ宮が言った通り、倒れた女は五分程で目を覚ました。
 どうやら俺達を部屋に入れてからの記憶が曖昧になっていたらしく、それに気付いた四
ノ宮がきっと貧血だろうと上手く誤魔化した―実際は、女の中に居た『何か』が記憶に作
用して話していた時の情報を遮断してしまったのだろうと言う事だ―お陰で、取りあえず
は事無きを得たのである。
 そして俺は再度誓約書の件を女に持ち掛けたのだが、女は驚く程あっさりと折れた。
 話を聞けば、遊ぶ為に下ろした金も少なくなり、ホスト二人が余り良い雰囲気でないの
も察していたのでそろそろ潮時だろうと思っていたそうだ。
 それが本当だとすれば、四ノ宮曰く「女の中に居た『何か』はその気配を察していなが
らも、自分が受けた『願い事』を続行する為に意地を張っていた」。そういう事になるら
しい。
 「池に五円を放り込んで願い事を言うとそれが叶う……子供の頃から良く聞いた話でし
た。それで、たまたま池の前を通った時に試してみたんです。一度で良いから、勇気を出
してあんな所に行ってみたいって。冗談のつもりだったんですけど、それから少しして何
となく行く気になってふらっと……。後は、貴方がご存じの通りです」
 ますます夢みたいですね。
 女は悪戯がばれた子供の様に笑うと、そう付け足した。
 やはり思い出せば出す程、やり切れない。
 俺はマネージャー役を演じる必要の無くなった四ノ宮から受け取った鞄をぶらぶらと行
儀悪く大きく振りながら、前を行く探偵の背中を見る。
 この男も、やり切れない気分になる事が有るのだろうか。
 聞いてみようかとも思ったが、さてどうしようかと迷っている間に目的地に到着してし
まった為、結局聞かない事にした。
 虹ヶ丘公園だ。
 四ノ宮は出入り口の前で一度立ち止まると、何処か遠くを見る様な、不思議な間を置い
た後で再び歩き出し、俺もそれを追う。
 ふと見上げた空には、三日月がぽっかりと浮かんでいた。

 犬の散歩やウォーキングに励む人々位しか居ない夜の公園に入った俺達は、しばらく言
葉も交わさずにひたすら歩き続けた。
 奥に向かって歩けば歩く程人影はまばらになり、代わりに虫や蛙の鳴き声が耳に届く様
になる。
 本来は田舎でなくとも聞く事自体は出来るのだろうが、繁華街でしか生活していない俺
にとっては懐かしい物に感じられた。
 「着きましたよ」
 徐々に蛙の鳴き声が近くなり、木々に囲まれた遊歩道から一転して視界が広がる。
 四ノ宮がそう言って立ち止まったのに続いて足を止めた俺は、そこが大きな池を見渡せ
る場所である事に気が付いた。
 探偵事務所に置かれていた地図を見た時にかなりの大きさであるのは分かっていたが、
実際にその場に立ってみると更に大きく感じられる。
 対岸迄は20メートルは有るだろうか。そして、左右に分かれている遊歩道が何処迄続
いているのかは薄暗いせいも有るが良く分からない程と言う事は、池の周りを気軽に一周
とは思えない大きさだろうと考えられるのだった。
 「元々、この公園を中心とした一帯は虹野と呼ばれていたそうです。池から湧く水を受
けて肥沃になった地に広がる野原が見事だったとか」
 「野原の野……は分かりますけど、どうして虹なんですか?」
 「それは、こちらから話して貰っても良いかもしれませんよ」
 「こちら……?」
 大人の腰の高さ程有る転落防止用の柵の前に立ち、池を背にしていた四ノ宮が身体を反
転させるのに、俺は改めて池を見る。と、そこに巨大な影が有った。
 『虹とは空を貫き天へと昇る我らが眷属の事よ。そして、我らは人がここに集まるより
ずっと前から住んでおったわ』
 いつ現れたのか、いつから俺達を見ていたのか。
 巨大な影、いや、俺の胴体と同じ位の太さの身体を持ち、堂々と頭をもたげて池から身
を乗り出している白い蛇が鈍い光を放つ目で俺達を見ていた。
 『本当に来るとは思わなかったぞ、人間。アイザワユウコは納得したか?』
 「報告はしなければなるまいよ。『願い事』が終わったからと言ってそちらがあっさり
と興味を失った訳では無いだろうと思ってね。逢沢さんは納得し、ケリも着けた」
 空に浮かんでいた三日月が緩く動いた白蛇の巨体で隠れ、光を受けた鱗がきらきらと輝
いており、水面から出ている胴から頭迄の長さは二、三メートルはあるだろうか。池の中
にどれ程の長さが残っているのかは想像もつかない。
 『ふん。そういう律儀さは我も嫌いでは無い』
 最初は俺達と同じ様に口から声を出しているのかと思ったが、どうやらそうでは無いら
しく、思い切り開けば俺など一飲みしてしまう程の大きさを持つ口はぴくりとも動かず、
どうやって声を出しているのかは全く分からなかった。
 『そこの男。野木、とか言ったか』
 「はっ……はいっ!?」
 不意に呼び掛けられて声がひっくり返った。
 取りあえず敵意らしき物が感じられないとは言え、テレビ番組でしか見た事がない―い
や、見た蛇だってこれ程大きくは無かった―池から身を乗り出して俺達を見下ろしている
大蛇に恐怖を感じていた俺は、文字通り飛び上がる程驚いてしまう。
 『酷い震え様だな。へたり込まぬ内に、その辺に座るが良い』
 「あ……!そ、そうですね……」
 指摘されて初めて気付いたが、驚いたのを別にしても、俺の身体は端から見ても分かる
だろうと言う位がたがたと震えていた。
 「野木さん、そこのベンチに」
 「済みません……」
 俺の情けない姿とは対照的に、蛇の傍に居るにも関わらず落ち着き払ったままの四ノ宮
が池沿いの歩道に据え付けられたベンチを指差し、大人しくそれに従う。
 身体の芯迄震えているのか、先程迄聞こえていたはずの虫や蛙の鳴き声が遠く感じられ
た。
 『ただの人間ならこうなるのが当然だと言うのに、貴様は変わりが無いな』
 「それが取り柄でね」
 鈍い動きでベンチに座る俺を余所に蛇が四ノ宮に声を掛け、ただの探偵ではないらしい
男は目を細めて微かに笑った。
 「仕事の関係上、そちらの様な存在には縁が有る」
 『その癖、見付ければ即座に我らを滅すると言う選択はせぬか』
 「必要の無い行動は取らない方針だ」
 『珍しい奴よの』
 そう言うと、蛇の目が細められた。笑ったのかもしれない。
 『我らは古くからここに居を構えておった。かつては草原が広がり、人間も数える程し
か居らなんだが、徐々に人間は増え、糧を得る為に草原は田畑へと姿を変えた。しかし、
人間が賢明だったのは、我らが居るこの池だけは手を付けずにいた事だ』
 「その事なら虹ヶ丘周辺の寺社で確認した。古くから人々は池の湧き水を生活や農業に
活用し、そこに住む蛇達が農作物を食い荒らす鼠等の小動物を狩ってくれる事に感謝して
いた為、池を宝として扱ったとの記録が残っている」
 『人間達が飼う鶏の卵を食らわずとも、鼠やら土竜やらを食らっていれば充分腹はくち
くなったのでな』
 蛇の言葉を四ノ宮が継ぎ、蛇が再び言葉を続ける。
 四ノ宮が調査の為に時間が欲しいと言っていたのは、こういう話を収集する為だったの
か。
 完全に外野と化した俺は、二人―と言って良いのか分からないが―の会話を半ばぼんや
りと聞いていた。
 「そして、蛇が定期的に脱皮するのを不老不死と見た人間は、龍に連なるモノとして神
にも等しいと仰ぎ、敬った。この池に賽銭を投じ、願い事を唱えれば叶えられると言う噂
が未だにこの一帯で残っているのは、名残とも言えるだろう。実際、そちらで叶える事も
有る様だしな」
 『気が向いた時だけぞ。失せ物探し物の類いならともかく、億万長者になりたいなぞと
言う願い等、誰が叶えるものか』
 蛇が鼻先を軽く上げ、ふん。と鼻息を一つ。
 少々、コミカルな動作である。
 『アイザワユウコが願った物も、我が手を貸すのに不都合が無かったからやった迄の事
よ。まさかこうなるとは思っていなかったがの』
 そう言い終えると蛇の頭がぐう。と下がって来て、池の傍に居る四ノ宮の顔を真正面か
ら見られる高さ迄動いた。
 俺が見られている訳では無いのに、もしも自分が四ノ宮の所に居たら。と思うだけで冷
や汗が出る。だが、四ノ宮は少なくとも外見上は動じた様子が全く無かった。
 『我をアイザワユウコから無理矢理引き剥がさなかったのは、アイザワユウコの為か』
 「それも有るが、そちらが話を聞かない様な頑固者ではないだろうと言う事も考慮して
の選択だよ」
 『やれやれ、人間の身のみならず、我の考え迄慮ってやりおったか。食えぬ奴よの』
 「褒め言葉として受け取っておこう」
 『全く、ヒトとは計り知れぬモノよ。まあ良い。せいぜい我らが同胞に牙を立てられぬ
様にする事だな』
 蛇の頭が、いや、身体が静かに四ノ宮から離れて行く。
 最後の言葉に、四ノ宮は軽く頷いた様だった。
 『では、さらばだ』
 三日月の光が池に沈んで行く蛇の鱗に反射し、真珠色の輝きを放つ。
 俺はしばしそれに見蕩れ、やがて姿が完全に水中に没した時、ようやく身体の力を抜く
事が出来た。
 「……これで、完全に終わり……ですか」
 「そういう事ですね。お疲れ様でした」
 気が付けば虫や蛙の鳴き声は元通りに響き渡り、近くを走っているらしい人の足音が通
り過ぎて行く。
 「そういえば……他にあの蛇を見た人は……」
 「彼女が『人払い』をしていましたよ。私達以外は見ていないでしょう」
 ベンチに身体を預けたまま四ノ宮の返事を聞いた俺には、言葉の深い意味を問い返す気
力はもう残っていなかった。おそらく聞いても良く分からないだろうと言う事も有るのだ
が、これだけは引っ掛かったので聞いてみる。
 「彼女……ですか?」
 「彼女。ですよ。あの蛇は、分類上は雌ですから」
 発せられていたのが男とも女とも付かない声だった為、俺はあの蛇が雄雌どちらかなど
考えもしていなかったし、外見では分かるはずもないと言うのに、四ノ宮はそれをどうし
て知ったのだろう。
 あいにく、これ以上聞く気力は俺には残っていなかった。
 ただ、余程俺が変な顔をしていたのか四ノ宮は笑いを堪える様に目を細め、「今回の件
に関しては、何の意味も持ってはいないですがね」と付け足したのだった。


                  <四日目>
 実動二日で前金含めて二十万、成功報酬込み。
 ただ事では無かったトラブル解決の為に必要だと思うには安く感じられるそれが四ノ宮
から提示された金額だった。
 「あの……本当にそれだけで良いんですか?」
 「良いですよ。今回は命に関わる様な件でも無かったですし」
 三度訪れた探偵事務所で三度珈琲を勧められつつ提示された額の軽く三倍は入っている
封筒を差し出そうとしていた俺は、世間話レベルの軽さで言った四ノ宮を見遣る。
 あれで命に関わっていないのなら、この男が考える命に関わる件とはどういう類いの物
なのだろうか。想像するのも恐ろしい。
 「何だか申し訳無い気がするんですけど……」
 「こういう件に関しても、通常業務と同じく必要金額の査定はしていましてね。この額
が適正ですから。気に為さらなくて結構です」
 落ち着いたベージュのスーツを着た四ノ宮は俺の言葉を聞いて軽く首を横に振り、こう
付け足した。
 「ただ、これでも貰い過ぎかと思う事も有ります」
 やはり、四ノ宮にとって俺が頼んだ仕事は珍しくも無ければ危険でも無かったらしい。
 中途半端に封筒を持ったままで固まっていた俺はそう思いながら、封筒を一度胸元迄引
き戻すと中から十九枚の福沢諭吉を引き抜き、テーブル上に置かれていた銀のキャッシュ
トレイに乗せる。
 「本当に、お世話になりました」
 「いえ。早く解決出来て幸いでした。……では、確かに頂きました。こちらをどうぞ」
 封筒を懐に戻し、礼を言うと同時に自然と頭が下がった。いつも仕事でやっている半ば
反射で出る会釈とは全く別の物になったのは、悩みが解決した事だけが理由では無いだろ
う。
 俺はトレイ上の一万円札の数を確認した四ノ宮が差し出した領収書を受け取り、丁寧に
折り畳むとそれも懐へと入れておく。
 「四ノ宮さんは、時々あんな仕事を……?」
 「いえ、本来はあれが本業です。とは言え、ああ言うモノとのトラブルより、人同士の
トラブルの方が頻繁でしてね。普段は通常の探偵業務に励んでいますよ」
 まだ柔らかな湯気を立ち上らせているカップを手元に引き寄せながら聞いた俺に、四ノ
宮が言う。
 「じゃあ、探偵が副業…なんですか」
 「一応、そういう事になります。まぁ、続けて来た時間を単純に見ると探偵の方が長い
のですが」
 「それは、何年程?」
 「一時期離れましたが、合計すると二十年近くになります」
 もうベテランの域に達していると言う事か。
 俺は、最初から用意されていた砂糖のスティックの端を千切り、カップの中へと中身を
落としつつ先にカップを口に運んでいる四ノ宮をちらりと見る。
 この落ち着き様や肝の座りっぷりは、そういう所から来ているのか、それともああ言う
モノを相手にしているからそうなったのか。興味を引かれなくもない。
 しかし、何となく教えて貰えない様な気はした。
 「そうそう……分かっていらっしゃるかとは思いますが、今回の事は他言無用に願いま
す」
 視線をカップに向け、中身を入れ終わって脇に置いたスティックから持ち替えたスプー
ンで珈琲を混ぜ掛けた俺は、不意に四ノ宮が言ったのに再び視線を上げる。
 「言うつもりは有りませんよ。と言うか、言っても信じては貰えないでしょうしね」
 うちの店を騒がせていたのは、女に取り憑いた巨大な白蛇でした。等と言ってみろ。俺
の首は一日経たない内に飛んで、店から追い出されるに違い無い。
 あえて言ってみて反応を見たい気もするが、そんな馬鹿げた事をしても仕方が無いのは
自分で良く分かっていたので、別の事を口にする。
 「ただ、もしも同じ様な事が有ったら……」
 「いつでも連絡を下さい。出来る限り、対応させて頂きますよ」
 まるで俺が言おうとしていた事を予測していたかの様に、探偵は目を細めると穏やかに
そう答えたのだった。