「あー……えっと……はい、そうなんです……ええ……」
目の前の男は、困っている様な何処か照れている様な、微妙過ぎる表情で頷いた。
「たまたま角を曲がったらですね、その、ナイフを持った人が走って来たので、慌てて逃げようとしたんですよ」
「そうしたら、上手い具合に足に引っかかって……」
「はい、その人がばたーんと倒れて」
「倒れた拍子にナイフが飛んで……」
「はいはい。ナイフがこっちに向かって飛んだのは見えたので、驚いてですね」
「手をかざしたら、偶然にも掴めてしまった。……と?」
「はあ。そんな感じです」
「……凄い偶然ですね」
「そうですねぇ」
ここまで話すと、男は「はは……」と笑い声だか溜息だか、又も微妙な声を漏らした。
事の起こりは一時間程前にさかのぼる。
某町の路上にて引ったくり事件が発生。
犯人の高校生は中年女性のハンドバッグを強奪しようとしたものの、女性の抵抗にあい逆上。所持していたナイフで脅し、ハンドバッグを奪うと逃走した。
しかし、逃走途中で出くわした一般人の男性に取り押さえられ、御用となった。
今、目の前で事情聴取に応じている男が、その取り押さえた人物である。
それにしても……
「えぇと……何か?」
俺の視線に気が付いたのか、男は首を傾げながら問いかけて来る。
「いや、何も。とにかく、偶然が重なった物だなと感心していましてね」
第一印象はさえない男。だった。
歳は33、無職。
定職にはついていないらしいが、決まった職場の短期バイトをしているらしく、本当の意味での無職ではない様だ。
ただ、短期バイトの内容を語らない所を見ると訳有りなのだろう。
問おうかと思いはしたが今回の件とは無関係なので我慢する。
ジョギングの途中だったとかで、かなり着古していそうな黒のジャージ上下と白いスニーカーと言う出で立ちの男は、俺の返事に左手で頭を掻いた。
「信じて貰えないんじゃないかなー……とは思うんですが、本当なんですよ……」
「そうおっしゃる気持ちは分かります。まあ、こちらとしては犯人も捕まっているし、特に問題は無いんですがね。いやいや、本当に凄いと思いまして」
「ですよねぇ。僕もそう思います」
男が又「はは……」と小さく声を洩らした。
「ちょっとした間の事だったので、僕も何が何やら……。こんな感じで大丈夫なんでしょうか……?」
「ああ、それは大丈夫ですよ。安心して下さい」
「良かった……僕のせいで何か問題が有ったらどうしようかと……」
そんな大げさな。と俺は思ったが、男が本当に安心した様子だったので口には出さずにおいた。
それにしても、この男、どうも印象が薄い。
机を挟んでもう10分程話しているのだが、顔を突き合わせているにも関わらず、少しの間目を離すとどんな顔をしているのかがもう薄れてしまうのだ。
警察官と言う職業柄、出会った人間の顔や写真で見たそれを忘れない様、頭をフル回転させて生きて来たつもりなのに、男には何故か長年培った技術が通用しないのだった。
まあ、この男が犯人ではないし、問題は無い。無いが、短期バイトの事と言い、色々と引っかかる。
「……では、お話有難うございました。もう帰って頂いて結構です」
「あ、そうですか。こちらこそ大したお話が出来ず、済みませんでした。」
それでも、やはりこの男が犯人ではない限り、問い詰める訳にも行かないので帰って貰う事にする。
俺の言葉に、男はほっとした様子で頷くと、静かに椅子から立ち上がった。
「失礼します」
男が、まるで営業マンの様に深々と一礼した。
その動きは自然で、今の職業がそうだと言われても信じてしまいそうな程である。
又、引っかかる物が一つ。……我慢しろ。俺。
聴取を書き取っていた警察官にも一礼した男に扉を開けてやり、廊下へと送り出す。
男は聴取から解放された事で安心したらしく、のんびりとした歩みで廊下で待っていた同僚に案内されながら去って行った。
「たまたま引ったくりの前に立ちふさがり、たまたま足を引っかけ、たまたま飛んで来たナイフをキャッチか……週刊誌のネタになりそうですね」
「全くだ。そんな運を持った人間、居るモンなんだな」
「あの人、よっぽどの強運の持ち主なんじゃないですか?」
「その割には、何か冴えない男だったがな」
俺は聴取役の警察官に答えると、肩を竦めた。
「やれやれ……危なかったなぁ……」
警察署から出て、しばらく歩いた所で彼は呟いた。
ジョギングの最中に出くわした引ったくり事件に関わったは良いが、素早く対処して犯人を捕まえた迄は良い。
しかし、犯人を倒した時に吹っ飛んだナイフを掴んだ所を見られたのはまずかった。
相手は若いとは言え素人、こちらは20年以上武道の鍛錬を積んだ上、奇跡と呼ばれるレベルの幸運を備えた人間だ。宙を舞うナイフを掴む位の可能性を実現するのは簡単である。
ただ、捕まえたのが人通りの多い場所だったせいで見られた時の印象を誤摩化す余裕も無かったし、聴取を担当した警察官が自分の素性を怪しんでいたらしい事にも不安をかき立てられた。
まさか、人類を滅亡しようと暗躍する化け物が気付かない程に自分の存在感を無くす事が出来る『力』を持っている為、就職活動が上手く行かず定職に就けません。等とは言えるはずも無い。
全く、困った物だ。
「でも、深く突っ込んで来る人じゃなくて良かった……」
ずっと印象操作をしていたのもあるだろうが、警察官は何か聞きたそうな顔をしつつも、結局事件の状況確認をしたのみで聴取を切り上げてくれた。
これで、犯人の裁判が終わる頃には自分に対する引っかかりは完全に消えている事だろう。
下手をすると、自分に対する印象自体が消えてしまうかもしれないが、それはそれで仕方ない。
「はぁ……今日は大変な一日だったなぁ」
彼は苦笑しながらそう呟いて、帰路に着いたのだった。